一昨日、電車に乗り込んだときのこと。

一昨日、電車に乗り込んだときのこと。

ドアからすぐのところに、2人ぶんにはちょっと狭いくらいの
空席があったので、
「よかった!」と思って座ろうとしたら、
二十歳くらいの女性が、速足でやってきて
私と席の間に立ち、
「ほら、こっち、こっち!」と、
後ろに向かって呼びかけました。

そちらを見ると、年配の白髪の女性が
歩いて来たので、
そうか、(おそらくお祖母さんである)このひとを
座らせてあげたかったんだな、と
優しい気持ちになったのです。

あと1人分弱、空いている席。
私が座るより、彼女が一緒に座る方が
いいかなあ。。

そう思った私は、私の横、お祖母さんの前に立っている、
二十歳くらいの、その女性に、
「よかったら、ご一緒にどうぞ。」
と言ってみたのです。

「。。。。」
その若い女性は、無表情に私を見て
何も言わずに、再び前を向きました。

困ったふうのお祖母さんが、
「どうぞ、どうぞ、お座りください。」
と言ってくださったので、そこに座ろうとしたら、
その若い女性が小さな声で
「勝手に決められるとウザいんだよ!」
と言っているのが聴こえました。

。。。。

お祖母さんの隣に座って、
私は考えました。

胸が痛い。
私はなぜ、ショックを受けて辛いんだろう?

深呼吸をして、よく自分に聴きました。
しげちゃん、どうしていやな気持ちなのかな?

最初に出てきたのは、
「せっかく譲ってあげようとしたのに、
失礼じゃない!」
という考えでした。

私は自分が差し出した贈りものを
うれしく、受け取ってほしかったのだな。
それが相手の不快さにつながったことが
悲しかったのだ。

それがわかったとき、私は気づいたのです。

自分が見知らぬ人に、勇気を出して贈ったものを
感謝とともに受け取ってもらえることが、実は

ただ受け取ってもらえることを超えて、
『自分の存在が大切にされること、
大切であるとわかること』
を実感することにつながっていたのだ、
ということに。

『贈り物を大切にしてほしい』
という望みの後ろにあった、
『贈っている私の存在を大切にしてほしい』
という、切なる願い。

まるで、小さな子どもが、
両手いっぱいの花を、
お母さんに差し出すときのように。

そうか、そんなに一生懸命だったんだな。

それに気づいたとき、私は
自分に対して、
とても愛おしい気持ちになりました。

そうしたら、不思議なことに、
その想いを、今度はその若い女性に
向けられるようになったのです。

想像してみました。
もしかしたら、このひとは
どこかで、自分の善意の意図をわかってもらえなくて
とてもつらい経験をしたのかもしれない。

お祖母さんだけに席を確保したのであって、
私の席を奪うつもりがなかったことを
わかってほしかったのかもしれない。

誰かが自分の実際に合っていない解釈をして
自分の話は聴いてもらえなかったことに
がっかりしているのかもしれない。

このひとにも、差し出したかった贈りものと、
その後ろの、大切にしてほしい願いが
あるのかもしれない。

どれも、本当かどうかはわからないけれど、
(本当だと決めてしまったら、
彼女の望みに合わないし(笑))
想像しているうちに
ショックを受けていた胸の痛みも消えて
私はとてもおだやかで、あたたかい気持ちになりました。

ひとに何かを差し出すとき、
私は、自分の大切さを一緒に差し出していた。
けれど、もし相手が受け取ってくれなくても、
本当は、私の存在の大切さには
変わりがない。

大きな都会の片隅で、
私の、そしてもしかしたら、
他のたくさんのひとのこころの奥にある、
『大切にされたい』という
シンプルな、深い願い。

それに気づいたことは、大きな収穫でした。
電車を降りながら、
きっともう会うことがないであろう二人に、
こころから、お礼を言いました。

今日、自分に尋ねていること。

今日、自分に尋ねていること。

何かをするならば、

誰かのためにでもなく、
誰かが必要としているから、
でもなく、

純粋に、自分自身のために
やりたい。

たとえそれが、誰かをサポートしたり、
誰かの望みに貢献したりすることであっても、
それが、私自身のこころからの望みであってほしい。
それをすること自体が、私に、魂からの喜びをくれるような。

大切にされない寂しさや
自分の居場所のない怖れからではなく。

与えたことを、後悔したり
望むものが返ってこないことを
恨んだりしなくてもいいように。

ただ、喜びから、与えたいもの。

それは、何だろう?
私は、何をしたいだろう?

とても久しぶりに、筆(実際はiPad (笑))をとりました。

とても久しぶりに、筆(実際はiPad (笑))をとりました。

前回、ここに文章を書いてから、1ヶ月と少し。
暑い、そして密度の濃い、充実した日々でした。
たくさんの喜びと悲しみと、葛藤と静かさ。
いろいろなところを旅した日々を思い返しながら
いま、自分のいるところに
耳を傾けています。

この1ヶ月で、私は何を学んだだろう?
何を見つけただろう?

言葉になる考えが、思い浮かばないな、
と思った、そのとき、
実は私にとっての世界、そのものが
変化していることに気づいたのです。

私が世界を感じ取る、そのやり方が
揺れ、壊れ、開かれ、
いまはまるで、すべてのものを、
その内側から眺め、感じ取っているような。

私が思っていた『わたし』のかたちがなくなるとき、
世界は、私に向かって扉を開ける。

他にあまり、よい表現を思いつかないのだけれど
それが、いまこの瞬間も変わりゆく、
私の経験を表すのに
いちばん近い言葉です。

行き先のわからない、
未来に向かって進みながら、
私をいまに導いてくれた、全ての経験と
出会った全てのひとがくれた、たからものに
言葉のない、感謝を捧げます。

ありがとう。

来月7/4(水)-8(日)

来月7/4(水)-8(日)
穂高養生園で、やさしいコミュニケーションの
リトリート(宿泊ワークショップ)を開きます。
詳細は、http://www.yojoen.com/workshops/ws2018/ws180704_nvc.html#main

このリトリートのお知らせを書こうとして
すぐには、すらすらと言葉の出てこない自分に
気づきました。

2006年に出会ってから、
世界中のいろいろなところで学び、
日本のひとたちに紹介し、
私自身が日々、どう生きるかを探求してきた
ノンバイオレント・コミュニケーション(NVC)。

それは私にとって、
世界を観るための、希望の灯でした。
自分の真実を語り、相手の真実を聴くことで
争いを超えた、
新しいひとのつながりが顕れる。

それは、美しい、シンプルな原理であり、
いつでも還ることのできる、
こころの故郷だったのです。

この数ヶ月の、人生でいちばん深く長い
悲しみと、喜びの対話のなかで、
私は、最も弱い自分が
最も不安で、最も悲しく、最も怒っているとき
その中で、自分と周りのひとに
どうやって手をのばし、
どうやって、いのちの感触に触れるか、ということを
転んだり、傷ついたり、迷ったり、後悔したり、
それでも繰り返し立ち上がる、
その経験の中から、新たに学んだように思います。

NVC。
いま、この、いのちのことばは
私にとって、どんな意味を持つのか。
何を伝えたいのか。

自分の真実を聴くこと。
真実に耳を傾けるとき、見えてくる
いのちの流れに身を任せて、
生きること。

ひとの真実を聴くこと。
手を伸ばして、
ひとのいのちの流れに触れること。
ひとが自分のいのちに触れるのを
許すこと。

共に生きること。

あきらめないこと。

穂高の雄大な自然と、豊かな温泉、
心を込めて作られる、おいしいご飯と
澄んだ、静かな空気。

忙しい日常から、一旦休みを取って
自分と、世界とのつながりを
ゆっくり紡ぎ直しに
どうぞ、おいでください。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

http://www.yojoen.com/workshops/ws2018/ws180704_nvc.html#main

2018/7/4(水)-8(日)
やさしいコミュニケーション
~相手の真実を聴き、自分の真実を伝える~

本当に伝えたいことが奥深くにあるのに、口を開くとなぜか違う言葉が出てきてしまう。自分自身や、周りからの批判に傷ついて、その言葉への反論と自分への非難を行ったり来たりする。そんな経験をしたことはありませんか?

あなたは、自分が本当に伝えたいことを話していますか?傷ついたとき、腹が立ったとき、何に耳を傾けますか?

NVC(ノンバイオレント・コミュニケーション)は、アメリカの心理学者M・ローゼンバーグ博士が創造したつながりを生み出す対話法です。

批判や、一方的な判断にもとづく善悪を手放してありのままのそのひとの、いちばん大切なものとつながる。関わるすべてのひとの真実を尊重することで誰にとっても幸せな、新しく創造的な解決への道を開く。

このワークショップでは、世界とあたたかなつながりを持つための新しいものの見方を紹介し、自分を受け入れて、周りに耳を傾ける対話法を共に学びます。

単に『技術や知識を学ぶ』だけでなく、ワークショップ中、互いの関わりの中で、全体を大切にしながらその精神を『生きる』ことを実践していきます。

親子、カップル、友人、学校、職場…

コミュニケーションする、すべての方におすすめします。

*今回の「やさしいコミュニケーション」は15名前後の少人数制。
4泊5日の日程で基礎からじっくりとおこないます。
初心者から実践者までどなたでも参加することが可能です。
穂高の森の中、学びを深めながらゆっくりと自分と人に向き合う、貴重な5日間です。

日程:2018年7月4日(水)〜8日(日)参加費:88,000円 [4泊5日](税込)講師:鈴木重子・安納献・小笠原春野

今日、気づいたこと。

今日、気づいたこと。

辛いことがあるとき、
辛いこと、それ自体よりも
一緒にいて、その悲しみを
共ににしてくれるひとのいないことのほうが
もっと辛い、というときがある。

辛いことがあっても
そばにいて、受け止めてくれるひとがいれば
波が海に帰っていくように
悲しみは、もっと大きな何かに
還ることができる。

こころに大きな痛みがあるとき、
その嘆きを嘆くために
抱きとめてくれる、
ひとと自然の環が要る。

何もない、何も持たない、誰でもない自分が

何もない、何も持たない、誰でもない自分が
それでも、大切な存在として世界にいる、ということを
どうやって信頼するか、
ということに取り組んだ
数ヶ月。

本当に辛かったとき
友人が送ってくれた詩がありました。
読みながら、
涙がこぼれて止まりませんでした。

存在のありかを
あたたかい灯のように
照らしてくれた言葉を
紹介したいと思います。

できれば、深く呼吸して
ゆっくり、一言ずつ
読んでくださいね。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

The Invitation

あなたが生活のために何をしているかは、
どうでもいいことです。
私はあなたが何に憧れ、
どんな夢に挑戦するのかを知りたいと思います。

あなたが何歳かということも関係のないことです。
あなたが愛や夢や冒険のために
どれだけ自分を賭けることができるか知りたいのです。

あなたがどの星座の生まれかということも
どうでもいいことです。
あなたが本当に深い悲しみを知っているか、
人生の裏切りにさらされたことがあるか、
それによって傷つくのが怖いばかりに
心を閉ざしてしまっていないかを知りたいのです。

あなたが、自分のものであれ人のものであれ、
痛みを無視したり、簡単に片づけたりせずに
それを自分のものとして
受け止めているかどうかを知りたいのです。

また、喜びの時は、
それが私のものであれ、あなたのものであれ、
心から喜び、夢中になって踊り、
恍惚感に全身をゆだねることができるかどうかを
知りたいのです。
気をつけろとか、現実的になれとか、
たいしたことはないさなどと言わずに。

私はあなたの話すことが本当かどうかには
関心はありません。
私はあなたが自分自身に正直であるためには、
他人を失望させることでさえ
あえてすることができるかどうかを知りたいのです。
たとえ裏切りだと責められても、
自分自身の魂を裏切るよりは
その非難に耐える方を選ぶことができるかどうかを。
たとえ不実だと言われても、
そんな時にあなたがどうするかによって、
あなたという人が信頼に値するかどうかを
知りたいのです。

私はあなたが本当の美しさがわかるかどうかを
知りたいのです。
それが見た目に美しく見えない時でも、
毎日そこから本当に美しいものを
人生に汲み上げることができるかどうかを。

私は、あなたがたとえ失敗しても、
それを受け止めてともに生きることができるかどうか、
それでも湖の縁に立ち、
銀色に輝く満月に向かって
イエスと叫ぶことができるかどうかを知りたいのです。

あなたがどこに住んでいるか、
どれだけお金があるかはどうでもいいことです。
それよりも、あなたが悲しみと絶望に打ちひしがれ、
どんなに疲れ果てていても、また朝が来れば起き上がり、
子どもたちを食べさせるために
しなければならないことをするかどうかを
知りたいのです。

あなたが誰を知っているか、
あなたがどうしてここに来たかは関係ありません。
私とともに決してひるまずに
炎の只中に立つことができるかどうかが知りたいのです。

あなたがどこで、何を、誰と勉強したかは
どうでもいいことです。
私が知りたいのは、皆が見捨ててたった一人になった時、
あなたの内側からあなたを支えるものは何かということです。

私はあなたが自分自身としっかり向き合い、
その何もない時間の中にいる自分を
心から愛しているのかどうかを知りたいと
思っているのです。

オライア・マウンテンドリーマー
(訳 斉藤ゆか)

(転載歓迎いたします。

(転載歓迎いたします。どうぞみなさまにお知らせください!)
明日5/20(日)に、東京、下北沢のシアターカフェのイベントで
朗読とうたとお話をします。

この数ヶ月、
私がとても大きな悲しみを通り抜けているとき
私を助けてくれたひとのお二人が、
演出家のナガノユキノさんと、俳優の青沼かづまさんでした。

いのちの美しさ、かけがえのなさを綴る
素晴らしい作品を、
たくさん、送り出してきた
オーガニック・シアター。

これまでも長いあいだ、たくさんの公演にお招きくださり、
私に表現の機会を与えてくださったお二人は、
私が、いちばん助けを必要としているときに
なんだか偶然のように、連絡をくださいました。

『初めてコンサートに伺ったとき、
全く初めてなのに、なぜか楽屋に伺って
「私の作品に出演してもらえませんか?」
と言ってしまったのです。

重子さんの歌が、
理由もわからないけれど本当に好きなのです。
自分という人間を超えて
もっと大きな何かを、描き出してくれている気がするから。
私の作品の中で、ぜひ歌ってほしいのです。』

カフェのテーブル越しに、
一生懸命に話してくださる、その声を聴きながら
思いました。

私のうたが、すばらしいとか、すばらしくないとか、
そういうことじゃない。
誰かが、私がいのちがけで大切にしていることに
意味や美しさを見出してくれている、
それが、こころを動かすのだ。
それが、私がここにいることを
私に伝えてくれるのだ。

先日、リハーサルのために
久しぶりに、シアターで歌いました。
流れ出てくる自分の声を聴いて
驚きました。

私のうたは、こんなふうな
いのちのかたまりだったのか。

私は、本当に、本当に、
歌いたいのだ。

ユキノさん、かづまさん、ありがとうございます。
私を見つけ続けてくれて。

明日は、ウガンダに旅したときの経験をもとに書いた
少年兵の物語の朗読、
ひとのいのちのつながりについてのお話、
それにちなんだうたを
青沼さんと一緒に
綴ります。

自分を見つけるための
時間と空間を呼吸しに
どうぞ、お越しください。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「オーガニックシアター リアクション研究公演Vol.1〜演劇は世界の痛みにどうリアクションしてゆくのか?」の最後を飾るコンサートに出演します。

5月20日(日) 18:00 「ルリ恋コンサートⅡ」 出演:鈴木重子・青沼かづま

会場 ステージカフェ下北沢亭
東京都世田谷区代沢5−29−9 2F
3,500円+1drink ※1drink代別途必要(全席自由・税込)

ご予約・お問い合わせ:042-425-4007/[email protected]
※上記宛にお名前、ふりがな、ご連絡先を記載の上お気軽にお問い合わせください。

Confetti でもチケットをご購入いただけます。1枚購入ごとに、途上国の子どもたちにBCGワクチン一人分が寄付されます。

(この数ヶ月の間に、私が見つけたものを

(この数ヶ月の間に、私が見つけたものを
なるべくその通り、文章にしてみました。
その2つめ、嘆くことについて。
少し長い文です。

私自身にとっては、意味のある探求と発見だったけれど
もしかしたら他の方にとっては、
あまり興味や意味のないものかもしれません。
また、これは私自身の経験と想いであり、
同じようなことがらについて、それぞれの方が
それぞれ、かけがえなく大切な価値観を
持っていることも
尊重したいと思います。

私の想いの道のりと、共にいてくださりたい方、
大きな悲しみや、心の痛みと共にいること
そのプロセスに興味のある方に。)

4月27日(昨日)の投稿で、
私がこの世界にいることの意味を、
ソナーのように響き返してくれる、
大切な関係性を失ったとき、
自分の存在の大切さを再び見つけるために、
失ったものを嘆くことがとても重要だった、
ということについて書きました。

『「あなたは大切なひとです。」
「あなたがいるから、私はここにいる」
「あなたが幸せだと、私はうれしい」
「あなたのやってくれることは、本当にすばらしくありがたい。」
その響きを聴けるおかげで、私は
自分がこの世界にいることに意味があり、
大事にされてもいいのだということを
感じ取り、信じることが楽だったのです。それが、見えなくなったとき。
関係のなかで、その響きを聴くことが
できなくなったとき。

それが大切な関係であればあるほど、
私が失う支えは大きい。
まるで、自分がここにいることが、
わからなくなるかのような、無力感と悲しみ。

そのとき私はそれでも、
自分の存在の大切さを、信じることができるだろうか?
それは、どうしたら見つかるのだろう?

なんだか、逆説のように聴こえるかもしれないのだけど。

私にとって、唯一役にたったのは
それを私に伝えてくれていたひとがいなくなった
ということを、
手放しで、ただ嘆くことでした。

無理に自分に自分の価値を説いたり、
何か他のよすがを見つけようとがんばったり
するのではなく、
何かをつかもうとしていた手を空しくして
ただ、泣く。
何日でも、何週間でも、何ヶ月でも、
本当に何もない自分に、自分が落ち着くまで。
ときには、誰かの助けを借りて。

それは、とても勇気の要る道のりでした。』

最初のうち、私が感じた苦痛はあまりにも大きくて
何がどうなっているのか、
どうしたらいいのかわからず、
ショックの中で、私は途方に暮れました。

急に大怪我をして、その痛みと負傷のひどさを
理解できないひとのように。

対人神経生理学とノンバイオレント・コミュニケーションを
リサーチし、教えている、恩師のサラ・ペイトンさんが
怖れと悲しみという感情について、
以前、こんなことを話してくれました。

「ひとの感情のサイクルは、
およそ7つに分けられるけれど、
そのうちの『恐怖』と『悲しみ』を、
私たちは混同してしまうことがあるの。

恐怖は本来、自分や仲間の
身体的、物理的安全についてのもの。
そして悲しみは、自分にとって大切なつながりや、
帰属を失うことから来る。

私たちは、「大切な関係を失うのが怖い」
と言うことがあるけれど、
それは本当は、関係性を失うことを予測して
悲しく感じている、ということなのよ。

私たちが関係性についてパニックするとき、
それは悲しみの度合いがとても大きいので、
ショックを処理しきれずに洪水を起こしている、ということ。

けれど、高速回転の録音を低速で再現するように、
そのショックをスローダウンして紐解いてみると、
実は、その中身は、あまりにも大きな悲しみだ
ということがわかる。」

私の嘆きの道のりは、
まさに、サラの言った通りでした。

最初の1か月くらいの間、
私は、ときには何日間も続けて、
1日に何時間も叫びました。

苦痛は大きすぎて、いったい何についてなのかなど、
わかりようもありません。
私にはそれしか、できることがなかったのです。

なるべく身体を解放して、呼吸に任せ
出てきたいものは、何でも出てこられるように
小さい子どものように、泣き叫びました。

数時間叫ぶと、やっと少し落ち着いて、
その心の痛みが、何についてなのかを
自分に聴いてみることができました。

そうすると、不思議なことに、
まるで何かに引かれるように、
こころは奥深くのどこかに
私を案内してくれました。
そこには必ず、とても貴いものへの
切実な憧れがありました。

ひとの感情はそれ自体、
美しい道のようなもので、
その流れに逆らわずついていくと、
その底には、いつも、何か大切なものが
息づいているのがわかるのです。

生きることの意味や、存在を見てもらうこと、
大切にされること、思いやってもらうこと。
他にも、たくさんのものが見つかりました。

何かが腑に落ちて、ある程度落ち着き、
しばらくすると、また
次の感情の波がやってきます。
そうすると、再び、果てしなく叫んで泣く、
そして、大切なものを見つける、
その繰り返し。

それは、本当に本当に、勇気と、意志を必要とする
道のりでした。

けれど、
いつ終わるのかもわからないような、
大きな苦痛のなか、奥深くで
私は、自分がどこに行きたいのか、ということを
知っていたように思います。
生きものが、傷ついたとき、
癒されるために何が必要なのかを
本能的に知っているように。

感情を感じ取り、放出できる
楽器としての身体の全体性や自由さも、必要でした。

悲しみやショックを感じないようにブロックして
他のことをする、という選択も、あったと思います。
けれど私は、本当に自分を癒し、
自分と、関係性に対する信頼に戻ってくるために、
自分の真実を隠したり、ないことにしたりせずに
自分の大切な一部として、迎え入れたかったのです。

何人ものひとが、
いろいろなやり方で、助けてくれました。

何よりも有り難かったのは、
その悲しみの大きさを受け止められる人が
(ネット越しでなく)物理的に側にいて、
抱きしめてくれたときのことでした。

誰かがそうしていてくれると、
悲しみのための居場所を作ってもらったようで、
自分の何かが壊れてしまうことを心配せずに、
安心して、泣くことができました。

本当に辛くて、でも周りに誰もいないときには
心の中で、そのひとたちが
私を囲んで抱きしめてくれていることを
思い描きました。

誰かがどこかで、私を見てくれ、
私が痛みをプロセスする容れ物を
一緒に保ってくれたことに
心から感謝しています。

「ひとが嘆き悲しむとき、それを受け入れるには、
コミュニティ(ひとの共同体)が必要だ。」
という言葉を、サラ・ペイトンさんから聴いたことがあります。
私たちは、助けて合って生きていく。
その大切さと真実を実感した経験でもありました。

最も大変だったときから2か月ほど経つと、
嵐であちこちを横殴りした雨の水が
小川になって、海に向かって流れて行くように
圧倒されるような悲しみや苦痛は
だんだん落ち着いて、
私のこころは、自分にとって大切なものの響きに
自然に惹かれていくようになりました。

それにつれて、新しい視野や、
これまでになかった洞察が、
人生に流れ込んできたのです。

それは、本当に不思議な感じでした。
あまりにもなじみがなく、
以前のように力んでいないので、
なんだか、がんばり方が見つかりません。
これまでの慣れ親しんだやり方を失って、
どうやって生きていけばいいのかが
よくわからないような。

ゆっくり、歩いて行きたいと思います。

嘆きから新しい何かにつながる道のりは
終わったわけではなく、
苦しみや悲しみが、もう
私からなくなったということもありません。
それを消し去ることが、癒しのプロセスではないのだと
私は気づきました。

何があっても、いつでも、ただ自分と共にいること。
ただ、それをやり続けることが
ひとを、よりおおらかに、全体にして、
生きることの意味や、感じ取れるいのちのきらめきを
深くしていく。

そうやって、私は生きていくのだと思うのです。

(この数ヶ月の間に、私が見つけたもののひとつを

(この数ヶ月の間に、私が見つけたもののひとつを
なるべくその通り、文にしてみました。

私自身にとっては、とても大きな探求と発見だったけれど
もしかしたら他の方にとっては、
あまり興味や意味のないものかもしれません。
また、これはわ自身の経験と想いであり、
同じことがらについて、それぞれがかけがえなく大切な道を
歩いていることも
尊重したいと思います。

私の想いの道のりと、共にいてくださりたい方、
存在の意味や、いのちの流れに興味のある方に。)

この数ヶ月のあいだ、
私は自分について、ひとについて、
世界について、
今までやったことのないやり方で
考えたことなかった問いを
たくさん尋ね、答えを待ちました。

そのいくつかについては
美しい発見をしたし、
いくつかについては、
今もまだ、聴き続けているけれど。

その問いうち、
とても貴重で、大きかったもののひとつは、

何もない、何も持たない、誰でもない自分が
それでも、大切な存在として世界にいる、ということを
どうやって信頼するか、
ということでした。

私が当たり前に持っていた、
大事な人間関係。

その関係の中では、
私にとって、とても大切なひとたちが
「私がここに存在していて、
その存在が世界への贈りものであるであること」を
行動や、態度や、表情や、言葉で
響き返してくれていました。

それは、例えていえば、
船のソナー(音波による位置探知機)のようなもの。
私の存在や行動を、誰かが響き返してくれることで、
私には、そのひとがいることがわかり、
そして(こちらが同じように重要なのだけど)
私自身がいることがわかる。

「あなたは大切なひとです。」
「あなたがいるから、私はここにいる」
「あなたが幸せだと、私はうれしい」
「あなたのやってくれることは、本当にすばらしくありがたい。」
その響きを聴けるおかげで、私は
自分がこの世界にいることに意味があり、
大事にされてもいいのだということを
感じ取り、信じることが楽だったのです。

それが、見えなくなったとき。
関係のなかで、その響きを聴くことが
できなくなったとき。

それが大切な関係であればあるほど、
私が失う支えは大きい。
まるで、自分がここにいることが、
わからなくなるかのような、無力感と悲しみ。

そのとき私はそれでも、
自分の存在の大切さを、信じることができるだろうか?
それは、どうしたら見つかるのだろう?

なんだか、逆説のように聴こえるかもしれないのだけど。

私にとって、唯一役にたったのは
それを私に伝えてくれていたひとがいなくなった
ということを、
手放しで、ただ嘆くことでした。

無理に自分に自分の価値を説いたり、
何か他のよすがを見つけようとがんばったり
するのではなく、
何かをつかもうとしていた手を空しくして
ただ、泣く。
何日でも、何週間でも、何ヶ月でも、
本当に何もない自分に、自分が落ち着くまで。
ときには、誰かの助けを借りて。

それは、とても勇気の要る道のりでした。

けれど、
終わることがないかと思うような、
限りのない悲しみに触れるとき、
自分がこの世界に贈りものとして存在していることを
信じることが、
私にとってどれほど重要なのか、ということに
気づくことができました。
涙を流し、その悲しみに耳を傾けるうちに
その、深い望みの響きが
自分の中に深く満ちるようになりました。

私は、存在している。
私は、大切な存在だ。
そう信じたい。

私は気づきました。
それで充分なのだ。
私が大切であるかどうかは
そもそも私や他の誰かが決めたり、
判断したりできるようなものではない。
大きないのちのサイクルのなかで
いのちはそもそも、判断を超えて、その存在自体が
かけがえのない、唯一無二のものなのだから。

言葉で考えてみると当たり前の、この真実を
身体に落ちる確かさで、感じ、生きることができるようになるために
本当に心ゆくまで泣くことが
とても大切だったように思います。

「りんご」という言葉を読むのと
実際にりんごに触れ、匂いを嗅ぎ、口に入れて味わうことは
まったく違うことであるのと、同じように。

振り返ってみると、
私の、存在の意味を見つけられないことについての哀しみは
ずっと以前から、そこにありました。
それを響き返してくれていた関係を失ったことで
私は、その、ずっとあった哀しみに触れ、
その奥の大切な真実を見つけるきっかけを
もらっているように思うのです。

この道のりは
きっと、長く深く続いていくと思うけれど、

まるで、大きな荷物を肩から降ろしたように、
以前に比べて私は、
自分が存在に値するということを
自分に証明するために、いのち削るようにしてがんばる、
ということを、しなくてもよくなりました。

何もなくてよい、何もできなくてもよい。
私自身である以外に、できることは別にない。
それ以上ものになろうとして、がんばらなくてよい。
いのちの流れるまま、
そのとき望むことを、そのときにしかできないやりで
ただ、やればよい。

それが深く腑に落ちるにつれ、
私の人生は、他のいのちとともに
水のように流れ、深い喜びをもたらすような
気がするのです。

桜が咲いて、1か月。

桜が咲いて、1か月。
夕方バス停を降りて、ふと
目の前にある、大きなな銀杏の木を見上げて、
ついこの間まで、裸だった枝に
青々した葉っぱが育っているのに
気づきました。

たった1か月で、
ずいぶん、こんもりしたなあ。。。

と思って、急に
考えてもみなかった、その凄さに
愕然としたのです。

この木は、たった1か月の間に、
まったく何もないところから、
数千枚もの葉っぱを創り出したのだ。
設計図もないのに。

材料は、土の中ミネラルと、空気と、水だけ。
そしてそれらはもともと
以前に生きて死んだ葉っぱや生きもの、
それが創り出した空気と
空から落ちてきた、雨や雪の粒。

もし私が、同じものを作れと言われたら
どうだろう?
まず第一に、材料はどこかから買い集めなくてはならない。
そして、どんなにがんばっても
何も持たず、動かない、銀杏の木の、
足元にも及ばないものしか、作れないだろう。
しかも、要らなくなった作品は
ゴミ集積場に捨てるしかない。

なんということだろう。

普段、当たり前に思っている
植物や生きものの、成長と老衰のサイクル。
それが、どれほど精巧で、複雑で、無駄のない
美しい織りものを、織りなしているのか。

見慣れた銀杏の木のなかで
長い間、営々とくり返されてきた奇跡。
畏敬の念に打たれて、しばらく
風に揺れる枝々を仰ぎ見ました。

この地球の、生きもの進化の
いちばん最後に生まれてきた、種の1人である、
私。
私は、どんなサイクルを生きているだろう?
私は、何を創り出しているだろう?
それは、すべてのいのちの織りものの
どんな一部をなしているだろう?

その中で私は、何をしたいだろう?

それを自分に尋ね、耳を傾け、
答えを生きていけたらと
願っています。