一昨日、電車に乗り込んだときのこと。
ドアからすぐのところに、2人ぶんにはちょっと狭いくらいの
空席があったので、
「よかった!」と思って座ろうとしたら、
二十歳くらいの女性が、速足でやってきて
私と席の間に立ち、
「ほら、こっち、こっち!」と、
後ろに向かって呼びかけました。
そちらを見ると、年配の白髪の女性が
歩いて来たので、
そうか、(おそらくお祖母さんである)このひとを
座らせてあげたかったんだな、と
優しい気持ちになったのです。
あと1人分弱、空いている席。
私が座るより、彼女が一緒に座る方が
いいかなあ。。
そう思った私は、私の横、お祖母さんの前に立っている、
二十歳くらいの、その女性に、
「よかったら、ご一緒にどうぞ。」
と言ってみたのです。
「。。。。」
その若い女性は、無表情に私を見て
何も言わずに、再び前を向きました。
困ったふうのお祖母さんが、
「どうぞ、どうぞ、お座りください。」
と言ってくださったので、そこに座ろうとしたら、
その若い女性が小さな声で
「勝手に決められるとウザいんだよ!」
と言っているのが聴こえました。
。。。。
お祖母さんの隣に座って、
私は考えました。
胸が痛い。
私はなぜ、ショックを受けて辛いんだろう?
深呼吸をして、よく自分に聴きました。
しげちゃん、どうしていやな気持ちなのかな?
最初に出てきたのは、
「せっかく譲ってあげようとしたのに、
失礼じゃない!」
という考えでした。
私は自分が差し出した贈りものを
うれしく、受け取ってほしかったのだな。
それが相手の不快さにつながったことが
悲しかったのだ。
それがわかったとき、私は気づいたのです。
自分が見知らぬ人に、勇気を出して贈ったものを
感謝とともに受け取ってもらえることが、実は
ただ受け取ってもらえることを超えて、
『自分の存在が大切にされること、
大切であるとわかること』
を実感することにつながっていたのだ、
ということに。
『贈り物を大切にしてほしい』
という望みの後ろにあった、
『贈っている私の存在を大切にしてほしい』
という、切なる願い。
まるで、小さな子どもが、
両手いっぱいの花を、
お母さんに差し出すときのように。
そうか、そんなに一生懸命だったんだな。
それに気づいたとき、私は
自分に対して、
とても愛おしい気持ちになりました。
そうしたら、不思議なことに、
その想いを、今度はその若い女性に
向けられるようになったのです。
想像してみました。
もしかしたら、このひとは
どこかで、自分の善意の意図をわかってもらえなくて
とてもつらい経験をしたのかもしれない。
お祖母さんだけに席を確保したのであって、
私の席を奪うつもりがなかったことを
わかってほしかったのかもしれない。
誰かが自分の実際に合っていない解釈をして
自分の話は聴いてもらえなかったことに
がっかりしているのかもしれない。
このひとにも、差し出したかった贈りものと、
その後ろの、大切にしてほしい願いが
あるのかもしれない。
どれも、本当かどうかはわからないけれど、
(本当だと決めてしまったら、
彼女の望みに合わないし(笑))
想像しているうちに
ショックを受けていた胸の痛みも消えて
私はとてもおだやかで、あたたかい気持ちになりました。
ひとに何かを差し出すとき、
私は、自分の大切さを一緒に差し出していた。
けれど、もし相手が受け取ってくれなくても、
本当は、私の存在の大切さには
変わりがない。
大きな都会の片隅で、
私の、そしてもしかしたら、
他のたくさんのひとのこころの奥にある、
『大切にされたい』という
シンプルな、深い願い。
それに気づいたことは、大きな収穫でした。
電車を降りながら、
きっともう会うことがないであろう二人に、
こころから、お礼を言いました。
